サナブリ真木のなるほど!ブログ

経営、スタッフ、家族、色々な問題を抱えていた私が知った、手放して今に在るという生き方。毎日の体験を通して気付いた事を発振していきます。

受け入れるって何?影響されないってどういう事?全てを受け入れながら影響されない生き方について書きました。

おはようございます!

サナブリ真木です。

 

今日は、

全てを受け入れながら、影響されない

 

という在り方について書きたいと思います。

 

私は、長い間、「人を受け入れる」という事にこだわってきました。

 

それこそが愛だと思っていたので、誰かの事を悪く言ったり、拒絶したりする事にとても罪悪感がありました。

 

子供の頃から、いじめっ子やいじめられっ子の事が気になり、誰もが関わりたがらない子も、持ち前の正義感から、放ってはおけず、自分はどう接するべきかと悩んだものでした。

 

私が18歳で初めて就職した飲食店に、やたらと私に話しかけてくる30歳くらいの男性の先輩がいました。

その人は、田舎から出てきた私に対して、

 

自分が若い時にいかに悪かったか

いかに恐れられていたか

いかにして、登りつめてか

 

みたいな話を延々としてきました。

 

「18歳で弟子入りした大工の仕事で2年で親方を抜かすとこまで登り詰めたった」

みたいな、明らかに「それは嘘やろう!」という武勇伝も多く、他のスタッフ達は全く相手にしていませんでした。

私は、まだ若く、誰に対しても、まず受け入れる事をモットーにしていた事もあり、一生懸命話を聞いていました。

 

でもだんだん腹が立ってきて、その先輩の事が嫌いになってきました。

イライラした態度を取るようになっていって、なるべく話さなくて済むように工夫して過ごしていました。

 

それでも、その先輩は、私に嘘だらけの自慢話をしようと追いかけまわしてきました。

 

そして、更に問題は悪化し、大学生のアルバイトの先輩も、自分の悩みや、彼女としたケンカの内容などを延々と話てくるようになり、その内容のあまりの女々しさに、私はもう、ストレスでいっぱいになっていきました。

 

その後も、5人くらいは、一番若い田舎者の私に話を聞いて貰おうとする先輩が出てきて、私は18歳にして、社員食堂のおばちゃん的存在になっていました。

 

私は、

受け入れるって何?

 

と思いました。

自分のキャパが足りていないうちから、何でもかんでも受け入れようとしたら大変な事になるなと思いました。

 

それからは、自分に嘘をつくのをなるべくやめました。

 

誰からも良く思われたいという思いを捨て、愛想笑いをやめ、ハッキリ、サッパリを目指すようになっていきました。

 

主人も、人を笑わせるのが得意で、よく面白話を聞かせてくれました。

 

私は、正直になりすぎて、面白くない時は、

「フリ長い。オチ弱い。」

と一刀両断で切り捨てるようになっていました。

 

そして、ようやく自分のアイデンティティを確立出来たかなと思った頃から、受け入れられるものが減ってきている事に気付きました。

 

全体的に、ほとんどの人や物事に距離を置いている自分に気付いたのです。

 

私は、自分がどう在るべきか考えました。

 

努力して色々な経験をして、自信はついたけど、どう考えても、私の心は狭くなってる。

 

これは、どう捉えたらいいのか?

 

本当にどうしたらいいのかを強く知りたいと思いました。

 

そして、とうとう、私にとって正に必要な学びをしました。

 

それは、いつも書いていますが、

受け入れるとは、自分の個人的な価値観で判断してするものでは無く、個人的な判断をせずにするもの

だという事です。

 

個人的な価値観が無くなってくると、不思議なくらい、色々なものと一体感が感じられるようになります。

 

自分のアイデンティティを確立するという事に意識がいっている時には全く見えなかった、全てのものはつながっていて、ひとつなのだという事が、身体で感じられるようになってきたのです。

 

正に先日、私の目の前にいた子猫もそうです。

 

ハッキリと一体感を感じ、この子は私の家族なんだなと分かりました。

 

そして、信じらないくらい、私達家族の全員にに懐いています。

 

そうなってくると、だんだん怖いものがなくなってきます。誰がどう思おうと、誰に何て言われようと、本当はひとつだから大丈夫なんだなという、あたたかい安心感から、リラックスしていられるようになってきたのです。

 

すると、何故、私が若い頃、やたらと自慢や悩みを聞く羽目になっていたかが、分かるようになってきました。

 

それは、

私が影響されていたからです。

 

多くの人は、人に影響を及ぼすという事にとても興味があります。

 

それこそが、自分の価値の証明につながっているように感じるからです。

 

子供が、泣き喚いてお母さんの反応を見たり

先輩が後輩にお説教したり

彼女が彼を困らせたり

 

みんな、自分がどこまで人に影響を及ぼせるかを知りたがります。

 

自分が何者なのかを知りたいのです。

 

私も正にそれが知りたくて、

人の役に立ちたいと強く願っていました。

 

子供は、純粋なので、影響が出るものに対しての関わりにとても敏感です。

 

例えば、水たまりや、泥んこ、砂場、虫、とれかけているゴムパッキンや、かさぶた、ボコボコと踏んだら音がする床、

「絶対に穴あけたらあかんよ」

と言われている障子

 

 

自分が触る事で影響が出るものは、どれどけでも触っていられます。

 

でも、いくら踏んでもビクともしない地面や壁を押し続けられる子はいないのです。

 

影響を与える事は、自分の存在を証明してくれるように見えるのです。

 

正に、私に影響が出ていたからこそ、わたしの周りの先輩方は、私を選んで話をしたのだと思います。

 

そして、

八つ当たりされやすい、

いじめられやすい、

怒られやすい、

お門違いのクレームを受けやすい、

なども同じです。

 

そういう事は、ビクともしないところには、やはり来ないのです。

 

私も、今まで、スタッフから色々な相談を受けてきましたし、人に色々な相談もしてきました。

 

ですが、今はただ、愚痴を聞いて欲しいとか、不安を共有したいというような、不毛な話は一切入ってきません。

 

ビクともしなくなってきたので、貴重な意見や、本当に力になれる時の相談しか入って来ないのです。

 

今、私は、

 

全てを受け入れながら、影響されなくなる

 

という事を、体験を通して実感しつつあります。

 

この体験は、

自分の証明はしなくても良い

と知った所から始まりました。

 

何故ならば、みんな本当はつながっていて、みんな愛から生まれているからです。

 

元々、私たちは愛そのものなので、元々価値があると私は感じています。

 

影響されないという事は、ドライでクールで人との関わり方が薄いという事ではなく、

 

正に愛そのものであるからこそ、一体感を持ちながら、密接に関わって、でも自分の在り方を変える必要が全く無い

 

という事だと感じます。

 

ですから、安心してリラックスしてお任せして、今という瞬間に関わっていきたいと思います。

 

今日1日が皆様にとって、安心に包まれたあたたかい日となりますように。

 

読んでいただいてありがとうございました!

また、お会いしましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は、何があるか分からない!何故か猫を飼うことになりました。

こんにちは!

サナブリ真木です。

まずは、1点お知らせをさせていただきます。

去年から1年間、料理教室を開催させていただいていましたが、今後は年に数回スポットでイベントなどに合わせて開催させていただきたいと思います。

 

教える事も、生徒さんとの交流も、とても楽しく、充実した時間を過ごすことが出来ましたが、最近、わたくしが色々と忙しくなりすぎまして、またなんやかんや整理して、準備が整いましたら、改めて料理教室開催のご案内をさせていただきたいと思います。

 

一旦4.5.6月はお休みさせていただきます。

通って下さっていた皆様、本当にありがとうございました!

 

パワーアップして戻って参りますので、しばしお待ちくださいませ(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

さて、今日は、固定観念を手放したら、何故か猫を飼うことになった話を書きたいと思います。

 

10日くらい前からでしょうか?

 

一匹の子猫がサナブリの倉庫の前に現れて、ずっと動かずにこちらを見ていました。

 

今までも、野良猫は結構いましたが、その子猫は全くどこかに行く気配がなく、じーっとしていて、気が付いたら倉庫に入ってしまったりしていて、かなり困っていました。

 

私が店を休んで、一昨日、2日ぶりにその子猫を見ると、急にかなり痩せていて、目も開かなくなってきていて、かなり弱っていたのです。

 

私は急に、

あれ?このままやったら死んじゃう?

と思い、ご飯に鰹節をかけて食べさせましたが、あまり食べませんでした。

(猫はご飯はあまり食べないと後で知りました)

 

よく考えたら、サナブリの経営方針は、

「全てのものに愛を込める」

だよな?とハッとしました。

 

何かの縁で私の所にやって来たんだから、愛を持って、一番いい方法を考えなければならないと思いました。

 

そして、連れて帰って猫に詳しい友人に相談し、必要な処置をして、家で飼うことにしました。

 

すると不思議なもので、連れて帰ったその日から私や子供の膝の上で丸くなって寝ようとするのです。

 

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とにかく人懐っこくて、ずっとくっついてきます。

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子供のカメラ目線が気になりますが(汗)

 

野良猫で、こんなに人を警戒しないなんてあるのでしょうか?

 

友人の話では、多分誰かに飼われていたんではないか?との事でした。

 

私は、つい最近まで、

動物なんて絶対無理!

だって大変やん!

誰が世話するの?

毛が落ちて大変やろな〜〜!

どっちかっていうなら私犬派やし。

 子供の頃、「子犬のような目をしてるね」っ言われたことあるし(それは関係ない)

 

と思っていました。

人生の中で一回も猫を飼いたいと思った事がありませんでした。

 

ですが、不思議なご縁で、昨日から急に家族が増えました。

 

そして、一緒に過ごしてみると、ずっと前から家族だったような、いるのが当たり前のような状態にすでになっているのです。

 

改めてしみじみ思う事があります。

 

私は、今まで、自分がこうなりたい、こう在りたいとう理想に当てはめて、行動を選んで生きてきました。

 

綺麗な家に住んで

お洒落な服を着て

20歳ごろの体重に戻って

お肌はツルツルピカピカで

仕事をバリバリやって

家族が仲良くて

周りのみんながいつも笑っている

 

そんな自分を想像して、そうなる為に必要な言葉、行動を選択し、努力をしてきました。

 

ですが、頑張れば頑張るほど、理想の自分と離れていって、苦しくなりました。

 

自分に色々と求めていたので、人にもすごく求めていました。

 

今なら、何故そうなったのかが手に取るように分かります。

 

それは、

今を生きていなかったから

です。

 

 「今」というこの瞬間に起こっている事を本当には見ていなかったからです。

 

自分の理想に当てはめて、全てをジャッジしていると、本当の事は見えないんですね。

 

もし、私が今も自分に対する理想でいっぱいだったら、この子猫の存在にすら、気付かなかったかもしれません。

 

もちろん、

「可愛そうな動物がいたら、飼いましょう」

という話ではありません。

 

その場で、全てにとっての最善を選択する為には、本当に自我意識がゼロでなければならないのです。

 

自分の個人的な理想、期待、思い込み、想念、感情、といったものが起きている出来事に色を付けてしまいます。

 

私はこれまで、本当に多くの判断をして生きてきました。

この人は、わたしに合う人か?

この出来事は、私にプラスになるか?

 

その判断の源にあったのは、いつも自分の価値観でした。

 

そして、私の価値観を作りあげてきたものは、

私がしてきた体験

でした。

 

本を読んだり、話を聞いたりして、起こった事に対して、

えー!うそー!そんな事ある〜?

やっぱりそうか!絶対にそうだと思った!

こうすると、痛い目に合うなー。

これは、私にぴったりやな!

 

という体験こそが、私の価値観を作りあげてきました。

 

ですが、そもそも体験とは何なのか?

 

体験とは、意識がするもの

だそうです。

 

例えば、

痩せた野良猫がこっちを見ているという現象に対して、

10人いれば、10人が違う体験をします。

何故なら持っている意識が違うからです。

 

猫が大好きな人は

「可愛そうに!こんなに痩せて!なんとかしてあげなければ!」

と思いすぐさま行動するという体験をするかもしれません。

潔癖症の人は

「可愛そうやけど、雑菌すごそうやな〜〜。」

と思い、どこかに追いやるという体験をするかもしれません。

猫が嫌いな人は

「お願いだからどっかに行ってくれ〜!今日の星座占いで運勢最悪やったんは、このことかな?」

と星座占いは当たるという体験をするかもしれません。

猫アレルギーの人は、

くしゃみが止まらない

という体験をするかもしれません。

 

すなわち、痩せた猫がこっちを見ているという同じ現象に対しても、それぞれの人がそれぞれの体験をして、それぞれの価値観として潜在意識にインプットされていくんですね。

 

ですから、体験が違うので、持っている価値観は人によって違うという事になります。

 

同じ体験をしている、うちの一卵性の双子でさえ、すでに全く違う価値観を持っています。

 

ですから、私は、今後もひとつひとつ自分が培ってきた価値観を手放して終わらせていき、ニュートラルな状態になっていこうと思っているのです。

 

そうでなければ、本当の事は分からないし、本当の貢献は出来ないんだなと感じているからなのです。

 

ただ、今、目の前にある事に愛を込めて、真剣に関わる事

 

これが、私の人生のテーマです。

 

そのように生きるようにしてみると、不思議な事だらけですが、すごく面白い事は間違いありません。

 

「そんな事言ってて、どんどん動物を飼う羽目になったらどうすんの?」

 

と思われた方、もし私が本当にそうなっていたら、私の事は、

「ムツゴロウさん」

と呼んでください。

 

ムツゴロウさんになりたい訳ではないんですけれど、何があるか分からないからこそ、人生は面白いですね!

「よーしよしよしよし!」とクシャクシャの笑顔で生きるしかないですね(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

ではでは、今後とも西木ミルク(ヒゲが白いからだそうです)をよろしくお願いします。

読んでくださってありがとうございました〜〜!

またお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田舎のカフェサナブリは経営方針の変更をしました。すると、不思議な変化が現れ始めたので、紹介させていただきます。

こんにちは!

サナブリ真木です!

 

最近は、暖かくなってきましたね(´∀`)

昨日の、里の市もポカポカと天気が良く、ご来場いただいた方が、お昼ごはんを食べたり、ゆっくりと話に花を咲かせて下さっていて、とっても嬉しくなるような雰囲気でした。

ご来場いただいた方、本当にありがとうございます!

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また、毎週やっておりますので、ぜひぜひ遊びに来て下さい。

 

今日は、サナブリの経営方針の変更とそれに伴う店の変化について書きたいと思います。

 

私は今まで、個人事業を軌道にのせる方法をこのように考えていました。

 

①コンセプトを明確にする

②お客様が喜ぶ商品を作る

③優秀で誠実なスタッフを育てる

④あたたかい雰囲気を作る

⬇︎⬇︎⬇︎

売り上げが上がり、健全な経営が実現する。

 

細かく言うとまだまだ色々ありますが、結局、人、もの、箱だと思っていたので、そこにとことん拘れば、必ず結果は出ると思っていたのです。

 

ですから、サナブリのコンセプトは、

感謝を通して地域を元気にする

という感じのものでした。

 

ですが、私は半年くらい前に、経営方針を大きく変える事になりました。

 

それは、私がやろうとしている事の、

源は何か?という事に気が付いたからです。

 

何故、このように地元で、オーガニックレストランをやろうと思ったか?

 

本当に正直な気持ちは3つありました。

 

一つ目は、自分が出来る事で地域や社会に貢献したかったから。

二つ目は、自分が今まで、培ってきたものを試したかったから。

三つ目は、単純に料理やケーキやパンを作るのが好きで、カフェをやりたかったから。

 

これが、私の起業の源でした。

読んでもらったら分かる通り、

「この田舎で、いっちょボロい商売したろ!」などと、悪い事を考えていた訳ではないのです。

ただ、純粋にやりたくて、挑戦したくて、田舎でカフェを始めました。

 

しばらくすると、

何か足りないな〜!

もっとやらなきゃ!

という気持ちになってきました。

そして、その気持ちは、どんどん大きくなっていったのです。

 

そして、いい加減、頑張り過ぎてみて、何かおかしいぞ?気付きました。

 

その時、とにかく私は、疲れていたのです。

 

そして、とうとう、私の経営の源は、

自分の価値を証明する為

だったのだという事に気が付きました。

 

だから、どんどん足りなく感じる事になっていたんですね。

 

自分の価値の証明には終わりが無いんです!

 

目標を達成して、みんなに認めらたとしても、また、だんだん何か足りなくなって、大きな目標を立て、更に頑張るという、エンドレス価値証明ゾーンをぐるぐる回ることなってしまう事になっていたのです。

 

これは、ひたすら価値の足し算の毎日ですから大変です。

 

一つとして、価値という荷物を落とさないように、両手に持てる限り持って、リュックにもパンパンにつめて背負い、頭にも乗せて、顔と肩の間にも、足の間にも挟んで、口にも咥え始めると、どうなると思いますか??

 

そうです!

 

身動きが出来なくなってしまうんですね!!

 

私は、荷物を落とす事が怖くなっていました。

そして、身動きが取れない状態で「押すな!押すなよ!」周りをけん制していたのです。

 

今考えると、主人も、子供も、何でそんな事になっているのか理解出来ず、

ダチョウ倶楽部的に押した方がいいのか?

ホンマにに押したらアカンのか?

私をポカーンとした顔で見ていたような気がします。

 

そして、とうとう、自分の価値をそんなに必死に証明しなくてもいいのだという事に気が付きました。

 

何故ならば、

私達には、すでに価値があるからです。

 

気付いた時、重たい荷物が本当にどうでも良くなって、今までサンキューでした!ペコリと感謝して、サヨナラしました。

 

どれだけ、身軽になった事か!!

 

本当に手ぶらが一番やな〜〜!と思いました。

 

そして、私はサナブリの経営方針を、今まで、誰からも聞いた事が無いようなものに変えました。

 

それは以下の通りです。

 

①全てのものに愛を込める

 

これだけです。

この経営方針の元、働いてみたら、面白い事が起こり始めました。

 

今までは、私にとっての仕事は、準備と本番の時間がありましたし、オンとオフの時間がありました。

 

売り上げを上げるための勝負の日がありましたし、力が入る日、力が入る人がいました。

 

ですが、経営方針を、ただ愛を込める事だけにしてみると、どの瞬間にも、目的があり、ゴールがあるので、ずっと本番で、ずっとオンになってきました。

 

トイレを掃除する時も、

野菜を洗う時も、

卵を割る時も、

お金を数える時も、

片付ける時も、

スタッフに教える時も、

お客様に接する時も、

 

本当に、どの瞬間にも、愛を込める対象があるので、ずっと真剣でいる必要があり、真剣にやってみると、何故かすごく面白いんです!

 

これには、本当に驚きました。

苦手だ、面倒だと思っていた事が、真剣にやってみたら、意外にも奥が深く、重要な役割を担っていた事に気付くのです。

 

そして、どの時間をとっても、どの作業をとっても、ふんわりとした達成感があり、何か無性に嬉しいんですね!

 

褒められなくても、認められなくても、その瞬間に、確かな満足が生まれるのです。

 

しかも、疲れない!

 

多分、未来の為の準備では無く、今を生きるようにしてみたからだと思います。

 

そして、更に驚くべき事に、この一見、

「イヤイヤ商売ってそんな甘いものちゃいますやん?」

 

という経営方針を、本気で実現しようとフルコミットでやってみると、必要なものが全部揃ってくるんです。

 

良く考えてみると、

 

良い商品も、

良いスタッフも、

良い雰囲気も、

そして売り上げも、

全ては愛から生まれていたんです。

 

ですから、この経営方針は、本当に全てを網羅しています。

 

愛を込める対象が全てなので、

お客様、スタッフ、生産者さん、食材、もの、時間、お金、そして自分自身に対して、同じように大切する必要が出てきます。

 

いかに自分が、自分の価値観で区別して生きてきたかを思い知らされる毎日です。

 

この、経営方針にしてから、明らかに変化したものは、私の気持ちだけではありません。

 

それは、サナブリで働く、スタッフの変化です。

 

見るからに、成長し、見るからに、仕事が自分ごとになってきています。

 

みんなが、愛を込めるという事を、本気で考え始めているのです。

 

これほど、嬉しい変化があるでしょうか?

 

この、ただ愛を込めるという事を真剣にやると、今までみんなが培ってきたものは、存分に生かされ、スキルや知識を、もっともっと身に付ける必要が出てきて、大いに学び、大いに深める事につながっていくのですね。

 

私は今、みんなで、この経営方針にコミットし、

サナブリを大きい愛が通る場所にしよう!

と考えているのです。

 

これは、本当にやりがいがあります!

 

今日も、嬉しい気持ちで、微笑みながら、真剣に働きたいと思います。

 

 

皆様の1日が、純粋な愛に溢れた嬉しい1日であることを祈っています!

 

読んで下さってありがとうございました〜(´∀`)

また、お会いしましょう(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワークライフバランスが大切と思っていましたが、本当にそうでしょうか?

こんにちは!

サナブリ真木です。

 

今日は、今まで私が大切にしてきたワークライフバランスについて書きたいと思います。

 

ワークライフバランス

とは、2007年以降、日本が特に力を入れて取り組み始めたもので、

「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」

事を指すそうです。

 

私は2007年、前の職場で、この言葉と出会いました。

私が勤めていた、ABCクッキングスタジオは、当時、女性専用の料理教室で、スタッフも99%が女性でした。

ですから会社の成長に伴い、スタッフには、結婚、出産、介護などの家庭の事情と、仕事のバランスを取りながら、それぞれに合った雇用形態が選べるようになっていきました。

 

私も、この言葉を聞いた時は、自分にとっても、すごく大切な事だなと感じました。

 

ただ、ガムシャラに働くだけでなく、家庭や、地域生活も、人生の中の喜びに直結しており、学ぶ事も多いのでこのバランスを取ってこそ、人は幸せになれるのだと考えていました。

 

ですから、このバランスを取らなければならないという事がいつも頭の片隅にあり、私お得意の、自分をぐるぐる巻きに縛るルールになっていったのでした。

 

そのように、自分に求めていると、人に対しても、そうしなければならないと考えるようになります。

私は、自分に対してもそうであるように、

スタッフに無理をさせてはいけない!

ワークとライフのバランスを取ってもらわなければ!

と強く思っていたのでした。

 

ですが、最近になって、感じている事があります。

 

バランスは、本当に取らなければいけないのか?という事です。

 

最近、私がそのように感じるようになってきたのには、分けがあります。

 

それは、仕事も、家庭生活も、地域社会生活も全部ひっくるめて、本当に心を込めて、めちゃくちゃ真剣にやってみようと思うようになったからです。

 

そのように、暮らしてみると、バランスを考えてる暇も無ければ、バランスを取る必要も無くなってきたのです。

 オンとオフが無くなり、どの瞬間も人生の本番で、ただ真剣に関わる以外する事が無いんですね。

 

本当に自分自身を生ききっている人は、これだというものに、一点集中し、全てを投げ打って、捧げきって生きている人が多いのではないか?

と思うようになってきたのです。

 

私は、これまで、バランスを取ろうとしたり、辻褄を合わせようとしたりするあまり、物事に対しての向き合い方が、中途半端で何かブレブレだったな〜!思うようになってきました。

 

良い悪いは別として、昔の日本は、一点集中の生き方の時代が長くあったようです。

 

生きる為に、食べる為に、働くという、シンプルな一点集中の時代があったそうです。


そして、本当に天皇の為なら、喜んで死ねるという、一点集中の生き方の時代があったと聞きます。

 

師匠に弟子入りして、ただ命をかけてその仕事をするという職人さんが沢山いたそうです。

 

嫁いで、子供を産み、主人に尽くし、子供を育てるという役割をただ生きていた人が沢山いたそうです。

 

昔は、師匠や先生は絶対的な存在だったと聞きます。

 

30年くらい前までは、一度会社に入ったら、自分の価値観に合う合わないなど関係無く、会社の為に定年まで勤めあげるのが当たり前だったとよく聞きます。

 

時代は、どんどん便利になり、どんどん自由になり、本当に多くの情報と選択肢の中で、全てが自分の選択に委ねられるようになってきました。

 

自由で無限の可能性があるはずなのに、何故か得体の知れない不安を抱える人が多くなってきたように思うのは、私だけでしょうか?

 

「これをやっていて大丈夫かな?」

「本当に、私の道は、これなのかな?」

「このまま行ったらこの先に何があるのかな?」

 

と、どうしても、良いとこ取りしたい気持ちになり、こっちをやれば、あっちが気になり、あっちをやればこっちが気になったりしてしまいます。そこで、バランスを取ろうとします。

 

これからの、便利で、自由で、情報の多い時代を生きる子ども達は、バランスを取る事に多くのエネルギーを使って生きていく事になるのでは無いでしょうか?

 

勉強と習い事のバランス

人と人のバランス

家族のバランス

仕事と生活のバランス

心のバランス

 

これらは、確かに上手に生きるためには、必要な事かもしれません。

 

ですが、何にしても、深く真剣に向き合わなければ、本当の面白さや、本当の奥深さ、その意味、その醍醐味は、身体に入ってこないと思うのです。

 

軽く舐めるような関わり方では、自分の自信にもならなければ、社会に、人に、貢献するという大きな喜びまで辿り着いていかないと感じます。

 

あくまで、人それぞれかもしれませんが、私は人生をこれというものに捧げて生きている人は幸せだなと思うのです。

 

何故ならば、それこそが、自分自身を生きるという事ではないかと思うからです。

 

もちろん、何かに集中して生きれば、苦しみや、痛みも深く味わう事があると思います。

 

でも、それは、本当に自分にとって必要な体験であり、それさえも大きな意味では、喜びであり、本当の自分に出会うチャンスなのではないかと感じるのです。

 

そして、その自分の役割とも言える、この人生をかけてやるべき事は、色々やってみたり、聞いてみたり、触ってみたりしなくても、今を真剣に生きていれば、分かってくるように思います。

 

本当に今という瞬間を、真剣に生きようとした時、人は自分の外では無く、内側に入っていくからです。

 

そのように生きていれば、自分の本質から来るメッセージが受け取りやすくなるのです。

 

しかも、何故か、その役割や人や仕事は、まあまあ自分の近くにあるんですね。

 

ですから、

私は、今、目の前にある事に超真剣に関わるという事を、自分の在り方を通して、子供やスタッフに伝えていきたいと思っています。

 

真剣になれる事を探したり、バランスを取ったりして、未来の為の準備をするよりも、まず、今、この瞬間を大切に一点集中して関わる事を教えたいと思うのです。

 

何故なら、未来は、今の連続の先にしかないからです。

未来を生きる事は、頭の中を生きる事です。

 

私は、この難しい時代を生きる子供達の為にも、本当に大人が真剣にならないかんな!と思っています。

 

子供は、いつの時代も大人を見て育つからです。

 

結局、私も、両親が2人共、一点集中して生きているのをずっと見ていたから、その生き方を知ったのだと思います。

 

今日も、目の前の事、人、もの、に真剣に関わりましょう。

これは、なかなか難しい事ですが、、、。

 

私達は、すでに必要なものを持っていますし、必要な環境を与えられています。

 

何も足りなくないから、探さなくてもいいんですね。

だから、今を丁寧に生きればそれでいいと私は思います!

ありがたい事ですね(´∀`)

 

長い文章を読んで下さってありがとうございました〜!

また、お会いしましょう(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教育とは何か?人を育てるとはどういう事か?私の父は先生でした。

こんにちは!

サナブリ真木です(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

今日は、英語のスピーチを考えていてまとめた「教育」について書いてみたいと思います。

 

私の父は5年前まで日本で一つしかない私立の農業高校、愛農学園農業高等学校の校長をしていました。

 

父は、私が小学校2年生になる時に、それまで勤めていた明治大学を退職し、自分の母校でもある愛農高校の先生になりました。

 

それから、約30年に渡り、愛農高校で、

神を愛し、人を愛し、土を愛す

という三愛精神を元にした、人間教育に携わってきました。

愛農高校では、聖書、寮、有機農業の3つの柱を通して、圧倒的な密度の教育が行われています。

 

私の母は謎の人物、美和子ですが、愛農の職員では無かった母も、父と同様、人生を本当に愛農に捧げて生きていました。

 

私は、子供の頃、その両親の背中を不思議に思いながら見ていました。

 

どちらかというと2人ともいつも楽しそうな訳でも無く、悲壮な面持ちの事も多かったのですが、とにかく本当に真剣なのです。

 

私は、父の仕事を間近で見ていて、教育とは何か?を考える機会がありました。

 

私が、本格的にスタッフ教育に携わる事になったのは、24歳の時でした。

 

マネージャーとしてスタッフ教育に携わり始めると、教育の奥深さや面白さに一気に引き込まれていきました。

 

コーチングの勉強や人を動かすリーダーシップの取り方ついて自主的に学び、力を発揮するようになっていきました。

 

突出したカリスマ性や、スキルが無かった私は、人を育て動かす事こそ、自分の得意分野であり大きな武器だと考えるようになっていきました。

 

ですから、教育には、特に強いこだわりを持っていたのです。

 

ですが、自分の店を始めて人が育つ場所を作ろうと意気込めば意気込むほど、だんだんうまくいかない事が増えてきました。

 

私がスタッフ教育に対して、一番大切にしてきた事は、期待と承認です。

 

人は、期待され、信頼された時に力を発揮し、承認される事で自信を作ると信じていました。

 

ですから、本当にスタッフにかける言葉や、任せる内容にはとても注意を払っていたのです。

 

それと同時に、自分自身がいつも見本になれるという事も、とても大切に考えていました。

 

なので、常に自分を律し、手本となるべく努力していました。

 

でも、気がつくと、何故かスタッフが苦しそうなのです。

スタッフは真面目で誠実で優秀に成長しているのに、みんな何故か自分に自信が無いのです。

 

私は、「何が間違っているのかを知りたい!」と強く願いました。

 

スタッフが自分の鏡である事は知っていました。

自分は、自信があって、好きな事を喜んでやっていると思い込んでいたので、何故スタッフが苦しくなるのか、全く検討もつかなかったのです。

 

そして、私は、何度も書いていますが、

「そうだったのか!」

という答えに出会いました。

 

それは、私のその行動の、その言葉の、その発振の、

「源は何か?」

という事です。

私が拘っていた、言葉も行動も私の価値観の中では正しい事でした。

ですが、

正しさでは、人のマインドには届いても、人の本質には届かないのです。

私は、自分の在り方を通して

「こうでなければ価値が無い!」

を発振していたのです。

 

 

すべての人が受け取りたいと思っているのは、

「正しさ」では無く「愛」なのだそうです。

 

私は、正しさや、善し悪しに拘るのをやめ、とにかく自分の源を精査しようと決めました。

 

すると、信じられない事に、私の価値観の源は不安で埋め尽くされていたのです。

 

私は、自分が出していた波動を知りました。

 

そして、スタッフや子供とどう関わるのが正しいかを考えるのをやめました。

 

「自分が愛そのものならどうするか?」

 

それだけに意識を向けようと思ったのです。

 

すると、不思議な事が起こり始めました。

私の周りにいる人が自然に成長し始めたのです。

 

これまで私にとって、たくさんいた

「この人に何とか成長してもらわなければ」

という人も、いつの間にか1人もいなくなっていました。

 

私は、

「何をするか?」

よりも遥かに力強い発振がある事を知りました。

 

それは、

「どう在るか?」

という事です。

 

犬も猫も植物も、例え同じ言葉をかけ続けたとしても、その波動が、愛なのか?不安なのか?で全く違う反応を示すそうです。

 

植物に毎日怒りをぶつけれは、本当に枯れてしまうという話を聞いた事があります。

 

人間も同じです。例え何も言わなくても、愛の波動は、人を育て、見守ります。

 

私は、本当の教育が何かに触れたような気がしました。

 

私の妹と弟は、父の勤めていた愛農高校に進学し、3年間、寮で過ごしました。

 

そして色々と苦労して大切な事を学び、卒業の時には、2人とも父の事をとても尊敬するようになっていました。

 

父が、何かを説明したり、教えたからでは無いと思います。

 

ただ近くで、その真剣さを、本当に命を削る姿を見ていたからだと思います。

 

私は、今、人は在り方を通して人を育てるのだと確信しています。

 

人はいつまでたっても、きっと未熟である事には変わりが無いでしょう。

 

ですが、その未熟さに囚われず、ただ真剣に、ただ心を込めて、今、目の前にいる人に向き合っていけば、それでいいのだと感じています。

 

いつも笑顔の人がいたり、

何も言わない人がいたり、

すぐ怒る人がいても、

 

その源が愛ならば、何の問題も無いという事です。

そして、例え、それが不安からきていたとしても、それはそれで、大きい意味では、人を育てているから安心していいと思います。

 

ただ、必要な事が起こるだけなのです。

 

結局、何がどうなっても大丈夫という事です。

 

明日の不安に怯えずに、

昨日の失敗に囚われず、

今を生きたいものだと思います。

 

私達大人が、今を丁寧に生きるという、

自己教育

これこそが、本当に人を育てる教育そのものなのでは無いでしょうか?

 

日々精進していきたいと思います。

 

今日も読んでくださってありがとうございました!

今日は、真面目なまま終わりま〜〜す!

また、お会いしましょう〜(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私達は、

 

 

 

私達は、日々色々な事を発振して生きています。

 

発信では無く、発振なのは振動で広がっていくからです。

 

そして自分の意識状態から発振された事を見事に私達は体験して生きています。

 

 

 

 

最近、英語を習い始めました!これが自分でも信じられないのですがめちゃくちゃ面白いんです。

こんにちは!サナブリ真木です。

久々の投稿になってしまいました。

 

最近バタバタと、忙しくしておりまして。

 

何がそんなに忙しいかと言いますと、わたくし習い事を始めたのです。

 

自分でも信じられないのですが、生まれてこの方、習い事などほとんどした事がなかった、私が習い始めたもの、それは英語です。

 

私は、中1で英語に挫折してからというもの、全く授業を聞いておらず、be動詞が何かも分からずに生きてきてしまいました。

 

なので、

「英語怖い!」

「外国人怖い!」

という変な固定観念を強く持っていたのです。

 

そんな、私が英語を習う事になり、今夢中で体得を目指して学んでいます。

 

このレッスンというのが、英会話ではなく、本当に言いたい事を、英語でシェア出来るようになる為に、日本語からブラッシュアップして、言語体系を学んでいくという、

Supreme English Course

なのです。

 

一緒に習っている方は、皆さん、語彙があるので、私は今、必死に英単語を覚える毎日です。

 

実際に習ってみると、他言語とはなんと面白いものでしょうか!!

 

自分が言いたい事を英語にする時、まずは、自分が本当に言いたい事にフォーカスしなければなりません。

 

そして、いらない部分をそぎ落とし、出来る限りシンプルにし、私が発音出来て、誰もが分かる言い方を探していきます。

 

この作業が、私にはたまらなく面白いのです。

何故ならば、私には本当に伝えたい事があるからです。

 

毎週、本当に言いたい事を英語で5分間スピーチするという宿題があり、私は、言いたい事を英語にするという事に、とても真剣に取り組んでいます。

 

いくら考えても、英文がわいてこない私は、調べて作って100%暗記して行くしかありません。

ですが、暗記する前に、これが合っているかも分からない為、今は、秀才の義理の妹にスピーチを添削してもらっています。

 

正に、英語を習う為に英語を習っているという状態になっています。

 

こうして、真剣に取り組んでみると、何であんなに英語が嫌だったのか?不思議で仕方ありません。

 

今は、本当に楽しくて仕方無いのです。

というのも、英語を話す為には、本当に日本語をブラッシュアップしなければならず、今まで、自分がいかにダラダラといらない情報を入れていたかに気付かされます。

 

それが、またとても勉強になり面白いんです。

 

自分が本当に言いたい事を整理し、シンプルな文章を作り、またそれを他言語で表現するという事は、脳の構造を立体的にするのにとても役立つそうです。

 

今の私には、ピッタリの勉強なんだと思います。

 

何故英語を習い始めたの?と聞かれれば

「そこに英語があったから」

と言うしかありません。

 

私は今まで、目標ありきで生きてきました。

こうなる為にこれをしよう!と未来の為の投資と準備に人生の大半の時間を使ってきたのです。

 

ですが、私は生き方を変えようと決めました。

 

未来への不安を手放し、今目の前で起こっている事、目の前にいる人、目の前にある、すべてをマルッと受け入れ、今という瞬間にこころを込めて、フルコミットで味わい尽くそうとしているのです。

 

そうしてみると、驚くくらいのノンストレスでいられます。

 

私は、自分に対して、本当に多くの固定観念を持って生きてきました。

 

私とは、こういうものだと強く思い込んでいました。

 

その観念を手放してみると、信じられないくらい、身軽で自由になりました。

 

私の世界は、今、どんどん広がり続けています。

一番、自分で意外に感じた事は、ブログを書いている事と、英語を習っている事です。

 

これは、間違いなく私がプライドを手放す事が出来たからこその行動だと思います。

 

自分が、現時点で全く出来ないことを、恥ずかしいとか、かっこ悪いとか、苦手ー!とか感じずに、ただ、チャレンジする。

 

これは、プライドを強く握りしめていた頃には絶対に出来なかった事だと思います。

 

私が、身軽になった一番の理由はここにあります。

人間は、いつの間にか、虚栄心にがんじがらめに縛られていくのではないかと思うのです。

 

そして、色々手放せても、最後に虚栄心だけは残る場合も多いそうです。

 

それほど、私達は、虚栄心にしがみついて生きています。

 

そして、この虚栄心こそが、私達に痛みや苦しみを運んでくるのかもしれません。

 

この、「私はこうでなければならない」という虚栄心が、私を生きにくくしていたんだな〜〜と実感する日々なのです。

 

この身軽さと喜びを、本当に英語でシェア出来るようになったら面白いな〜〜と今、思っている所なのです。

 

私が、真剣に英語を学んでいると、主人がいつの間にか、サナブリEnglish cafe なるものを企画してくれていました。

 

伊賀名張のALTの先生や、外国人の方と、英語を話したい日本人の方が集まってお茶会をするというものです。

 

意外と英語を話せる日本人の方ってたくさんいるんですね!気にして見てみると、私の周りにはたくさんいました〜〜!本当に尊敬します!

 

また、詳しく決まりましたら、連絡させていただきます!

 

今、習いだした所なので、まだ、私はいざとなると

「I can not speak Englis」

くらいしか言えません。

くれぐれも日本語が話せる方は、英語で話かけないようにお願いいたしますね!

 

そのうち、私が、ルー大柴のような話し方になっていても、その時はそっとしておいてあげて下さい(^_−)−☆

 

読んでくださってありがとうございました〜〜!

また、お会いしましょう(´∀`)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当の愛とは何か?愛情との違いは何か?今の時代に必要だと感じる私が目指す在り方について。

こんにちは!

サナブリ真木です^_^

 

今日は、本当の愛とは何か?について書きたいと思います。

 

私は、今まで、愛とは愛情の事だと思っていました。

ですから愛には対象があり、愛を向けるべき相手と、そうではない相手がいると思っていたのです。

 

特に、家族や、スタッフ、お客様、生産者さんに対して、いかにして愛を伝えるか?という事を考えてきました。

 

私の価値基準の中で、判断し、愛を向けるべき対象を選んでいたのです。

 

誰に対しても、穏やかで優しくありたいと願い、愛のような言葉をかけるように努力しながら、一方では、とても粗末にしているものがありました。

 

それは、自分や、身のまわりの物達や、私の価値観にそぐわない人達です。

 

15年くらい前、テレビ番組で、日本人1億人の縮図という事で、1000人の人を、子供からお年寄りまで集めて、アンケートを取るというものがありました。

 

あなたにとって一番大切なものは何ですか?

いう質問に対して4つの選択肢がありました。

 

①お金

②健康

③愛

④仕事、勉強

 

私は、それを見ながら、そりゃ愛やろう!と思いました。

 

ですが、結果一番多かったのは、①のお金で実に8割の人がお金を選んでいました。

 

私は衝撃を受けました。

私には、子供の頃から、お伽話、聖書の言葉などで、お金を一番大切にしている人は、酷い目に合うというイメージが焼き付いていたのです。

ですから、もちろん、みんなもそうだろうと思っていたんですね。

 

私は、自分の価値観の中で、愛は最も重要であり、最も正しいと信じていたのです。

 

ですが、ここ1年の学びの中で、本当の愛には対象は無く、正しさでも無く、

愛とは、状態である

という事を学びました。

 

始めは、意味は何となく分かっても、ピンと来ませんでした。

 

ですが、今はその意味がよく分かるようになってきました。

 

本当の愛という状態は、全てを受け入れ、全てを見守ります。

 

自分の価値観や、条件や、願望というフィルターを通さずに、ただ受け入れ、ただ大切に感じるという事です。

 

正にマザーテレサのような状態です。

マザーテレサは、宗教も、国も、年齢も、家柄も一切関係なく、すべての人を愛し、受け入れました。

 

愛という発振が起こり始めると、自分を愛し、家族を愛し、全ての人、全てのものに対して、本当の関心が生まれてきます。

 

先日も書きましたが、本当にすべてのものが受け取りたい波動は、1つしかないそうです。

 

それは、

「I love  you」の波動です。

 

言われてみれば、本当にそうだなと思います。

私も確かにそれ以外は、いらないなと思うのです。

嫌われたくないし、求められたくもありません。

 

昔は、子供はみんな、親や、隣のおじさんに叩かれながら育ったそうです。

 

でも、今のように、すぐ暴力だ!虐待だ!とはなりませんでした。

子供も健全に育ちました。

今と、何が違うのか?

きっと、

「源は何か?」

これに尽きるのではないでしょうか?

 

本当に源が愛ならば、人は怒られても、叩かれても、必ず分かるのです。

それが本当の関心であると。

 

私達はこれから、子供達や社会に本当の関心を向けていかなければと思います。

 

「愛情が不足している」

とよく言いますが、本当は、そういう問題ではないではないでしょうか?

 

私達が愛情と愛を混同して認識し、自分の価値観で対象を選び、自分の価値観で愛情を示している事が、大きな社会課題を作っているのではないかと思います。

 

何故ならば、その人の価値観にそぐわない人は愛されないという、認識が小学生くらいになると明確に起こってくるからです。

 

だから不安になります。

だから足りないと感じます。

だから価値を足そう、価値を証明しようとします。

みんな愛されたくて、受け入れられたくて、必死にならなければなりません。

 

そして、頑張ったり無理した結果、人に対しても、同じように自分の価値観で判断するようになっていくのです。

 

今、私は自分がやるべき事は、1つしかないと確信しています。

 

それは、愛という状態になるという事です。

 

人も、生き物も、物も、すべてのものが、ただありのままで愛される事を願っています。

 

自分は愛されたいと強く願っていながら、人間だけは、自分にも人にも強く、こうなるべきだ!求めています。

 

まず、その強い固定観念はどこからやって来たのかを知り、終わらせていく事が、愛という状態になる第1歩ではないでしょうか?

 

自分の価値観を手放し、ニュートラルな状態で、すべてを受け入れられる人が、今の世の中には、たくさん必要だと思います。

 

もし、読んでくださっている方の中で、私の言っている事に共感して下さる方がいらっしゃったら、私と一緒に愛そのものになる学びをしませんか?

 

私は、たくさんの大人達が、自由で、輝いて、愛そのものになっていく事が、未来の子供達にイノチのバトンを渡す事だと考えています。

 

同士がたくさん欲しいな〜と思うのです!

興味をお持ちの方がおられましたら、また、気軽に声をかけていただけたら嬉しいです!

 

今日も、ありのままの自分、ありのままのあの人を愛しましょう。

 

私達は、たくさんの事を勘違いしています。

本当に、足りなくなんてないんですね。

 

ただ必要があって、そう現れているだけなのです。

だから、安心して受け取ればいいんですね。

 

皆様にとって今日という日が、愛そのものという光で輝いていますように。

 

また、お会いしましょう!