人に対しての責任はどこまで取らなければならないのか?
こんにちは!
サナブリ真木です!
今日は、
「責任を取る」
事こそ自分の人生を生きる事だと思っていた私が、「責任を取ろうとしすぎる病」にかかった話を書きたいと思います。
私は、
自分の考え、言葉、行動、を絶対に人のせいにしてはならないと考えていました。
自分の人生に対して、自分が責任を追わない限り、何も始まらないのだと強く信じていたからです。
なので、誰に何を言われても、最後は自分が覚悟を持って決めるのだと自分に、言い聞かせていました。
そしてその延長なのか、周りの人、主人や子供やスタッフの事も、だんだん、自分の責任であると思うようになってきました。
私が雇ったスタッフ、
私が産んだ子供、
私が決めたパートナー、
私が始めた店、
私が決めたルール
全てにおいて、私に責任があると思っていました。
ですから、常に私にかかっているという感覚があったのです。
すると、何か重た〜〜いのです。
重たいものを、四六時中持っているという事は、意外と疲れるんですね!
今考えると、いつも、パンパンのリュックを背負って歩いているような、肩がカチカチに凝るようなしんどさがありました。
それは、割と子供の頃からずーっと続いていた感覚だったのです。
ですが、私は本当の意味でこのリュックを下ろす時がやってきたのです。
実は、これまでの間に2回ほど、私は、荷物を下ろすという感覚を味わった事がありました。
1度目は何と、中学1年生の時です。
私は、以前住んでいた神奈川県へ、よく面倒をみてくれたおばちゃんを訪ねる為に旅行しようと、お年玉やお小遣いを貯めていました。
その大切な全財産が入ったお財布を失くしてしまったのです。
寝ても冷めても、ずっとそのお財布の事が頭から離れず、必死になって探していました。
私の両親は、クリスチャンである為、私達兄弟は、子供の頃から祈るという習慣がありました。
「神様!どうか、どうか、私のお財布が見つかりますように!!お願いします!!何でもします!どうか私を助けて下さい」
と必死になって祈っていました。
すると、その時に礼拝で歌ったある賛美歌が、
ズドーンと私の中に降りてきたのです。
それは、結婚式やお葬式でも歌われる、とても有名な賛美歌321番「慈しみ深き」です。
1番の歌詞はこうです。
慈しみ深き友なるイエスは、罪、咎、憂いを取り去りたもう。
心の嘆きをつつまず述べて、などかは下さぬ、負える重荷を。
意味は簡単に言うとこんな感じです。
愛に溢れているイエスキリストは、
罪、心の迷い、心配事を取り去ってくれます。
心にある悩みを全て打ちあけて、何故、重荷をおろさないのですか?
私はこの
何故、重荷を下ろさないのですか?
の歌詞に、中1にして、ものすごい衝撃を受けたのです。
そうだ!全て、神様がいいようにしてくれているんだ。
これを分かるために、財布が無くなったんだな。だから、思い悩まなくてもいいんだ!
神様ありがとうございます!
と分かってしまい、財布の事から解放され、とても身軽になったという体験をしたのでした。
変な中1ですよね(^_^;)
そりゃおばちゃんみたいな子供になるわ。
そして2回目は、20歳の時です。
やたらと先の事が不安になってしまうという、ネガティヴに心配ばかりしてしまう時期がありました。
その時に、母の紹介で、米沢の牧師さんが行なっている、
「トータルカウンセリングスクール」
という、自己受容の勉強をするというセミナーに行った事がありました。
その時学んだことは、
「一元に生きる」
という事でした。
出来たら素晴らしい、
出来なかったら素晴らしく無い
という二元では無く、
何も出来なくても、
どんな事があっても、神の采配により、
「全ては最善の為に起こる」
という事を知り抜いて生きましょう!
という事を教えていただきました。
そこでまた、重たかった自分の荷物を下ろす事ができたのでした。
そこからは、とにかく明るく前向きに人生が展開されていきました。
なんてったって、20歳にして
「全ては最善の為に起こる」
という事を感覚的に理解したのです。
怖い事があまり、ありませんでした。
ですが本当の意味では、分かりきっていなかった様で、
実力主義、結果がすべての環境で働く中で、
だんだん、
自分次第で全てが変わると思い込むようになっていきました。
すると、1つまた1つと、背負っている荷物が増えていったのでした。
そして、とうとう、私はこの相対性の世界の仕組みを知る時が来ました。
そして、
「なるほど!自分が人生の最高責任者では無いのか!むしろ逆!コントロールしようとせずに、全て委ねて、お任せして、自分の天命を全う出来るように、身軽に自由になっておけばよかったんだ!」
という事を理解しました。
それが分かってしまうと、もう本当に楽チンです。何故ならコントロールしなくていいのです。ただ、手ブラで流れに乗っかって流されたらいいのです。
もちろん、メチャクチャ覚悟と勇気は入りますが!
そして、今まで、
考えた事、
学んだ事、
体験した事、
太った事、
ドブに落ちた事、
旦那の顔の上にクサヤを乗せ続けた事、
全てに、ホンノ1ミリさえも無駄が無かったのだなとハッキリと理解する事が出来たのです。
そうしていると、今まで
「私の責任」
と思っていた事がすごくおこがましかったのだと分かってきました。
何故なら、私と同じように、みんなにも天命があるからです。
その人だけの役割があり、その人にしか出来ない体験をする為に生きているのです。
全て、その人にとって必要だから起こっているのです。
その人にとってのその体験は必要な事なのです。
それを、私のせいで!としゃしゃり出て勝手に背負って、
「重い重い!」
と私は怒っていたのです。
ホンマにすんませ〜〜ん!
本当に、
「責任を取ろうとしすぎる」
という病気にかかったのだと思います。
何故、病気にかかるのか?
それは、自分の存在そのものの価値を知らなかったからです。
だから価値を証明しなければならず、不安になったんですね。
皆さんは、どう思うか分かりませんが、私はこの世は、神様が作ったのだと思っています。
ですから、間違い無く愛されているし、全てのものに価値があるのだと思っているのです。
どう捉えるかは、もちろん自由ですが、
私は、私だと思っていた私を手放したその瞬間から、本当の私の役割が目の前にバーンと現れ、細胞に組み込まれていた、プログラムが一気に起動し出したのを確かに感じています。
ですから、責任を取るべきは、
「自分の役割に対してのみ」
だと言い切れる思います。
そこにさえ、命がけでいればそれでいいのだと、氣太く天命を生きている方から教わりました。
それ以外は、自分の領域では無いのです。
責任を取る事で自分の価値を確認してはうまくいきません。
自分が目の前にある事に、心を込めて、全身全霊で進むという事にだけ、責任を取ればいいのです。
今日も、目の前にいる人を愛を持って見守りましょう!
すべて、その人にとって必要だから、起こっているのです。
決して自分のせいで起こっているのでは無いのです。
子供たちも、必要があって親を選んで産まれて来ているのだと思います。
だから
「こんな母親でごめんね」
なんて言わなくていいんですよ。
「そっちが勝手にお母ちゃんを選んだんやろ〜!とか言って、私も本当は貴方を選んだんやけどな(*゚▽゚*)我ながらナイスチョイスやったわ!」
と言っておきましょう!
読んでくださってありがとうございました!
また、お会いしましょう!