教育とは何か?人を育てるとはどういう事か?私の父は先生でした。
こんにちは!
サナブリ真木です(๑˃̵ᴗ˂̵)
今日は、英語のスピーチを考えていてまとめた「教育」について書いてみたいと思います。
私の父は5年前まで日本で一つしかない私立の農業高校、愛農学園農業高等学校の校長をしていました。
父は、私が小学校2年生になる時に、それまで勤めていた明治大学を退職し、自分の母校でもある愛農高校の先生になりました。
それから、約30年に渡り、愛農高校で、
神を愛し、人を愛し、土を愛す
という三愛精神を元にした、人間教育に携わってきました。
愛農高校では、聖書、寮、有機農業の3つの柱を通して、圧倒的な密度の教育が行われています。
私の母は謎の人物、美和子ですが、愛農の職員では無かった母も、父と同様、人生を本当に愛農に捧げて生きていました。
私は、子供の頃、その両親の背中を不思議に思いながら見ていました。
どちらかというと2人ともいつも楽しそうな訳でも無く、悲壮な面持ちの事も多かったのですが、とにかく本当に真剣なのです。
私は、父の仕事を間近で見ていて、教育とは何か?を考える機会がありました。
私が、本格的にスタッフ教育に携わる事になったのは、24歳の時でした。
マネージャーとしてスタッフ教育に携わり始めると、教育の奥深さや面白さに一気に引き込まれていきました。
コーチングの勉強や人を動かすリーダーシップの取り方ついて自主的に学び、力を発揮するようになっていきました。
突出したカリスマ性や、スキルが無かった私は、人を育て動かす事こそ、自分の得意分野であり大きな武器だと考えるようになっていきました。
ですから、教育には、特に強いこだわりを持っていたのです。
ですが、自分の店を始めて人が育つ場所を作ろうと意気込めば意気込むほど、だんだんうまくいかない事が増えてきました。
私がスタッフ教育に対して、一番大切にしてきた事は、期待と承認です。
人は、期待され、信頼された時に力を発揮し、承認される事で自信を作ると信じていました。
ですから、本当にスタッフにかける言葉や、任せる内容にはとても注意を払っていたのです。
それと同時に、自分自身がいつも見本になれるという事も、とても大切に考えていました。
なので、常に自分を律し、手本となるべく努力していました。
でも、気がつくと、何故かスタッフが苦しそうなのです。
スタッフは真面目で誠実で優秀に成長しているのに、みんな何故か自分に自信が無いのです。
私は、「何が間違っているのかを知りたい!」と強く願いました。
スタッフが自分の鏡である事は知っていました。
自分は、自信があって、好きな事を喜んでやっていると思い込んでいたので、何故スタッフが苦しくなるのか、全く検討もつかなかったのです。
そして、私は、何度も書いていますが、
「そうだったのか!」
という答えに出会いました。
それは、私のその行動の、その言葉の、その発振の、
「源は何か?」
という事です。
私が拘っていた、言葉も行動も私の価値観の中では正しい事でした。
ですが、
正しさでは、人のマインドには届いても、人の本質には届かないのです。
私は、自分の在り方を通して
「こうでなければ価値が無い!」
を発振していたのです。
すべての人が受け取りたいと思っているのは、
「正しさ」では無く「愛」なのだそうです。
私は、正しさや、善し悪しに拘るのをやめ、とにかく自分の源を精査しようと決めました。
すると、信じられない事に、私の価値観の源は不安で埋め尽くされていたのです。
私は、自分が出していた波動を知りました。
そして、スタッフや子供とどう関わるのが正しいかを考えるのをやめました。
「自分が愛そのものならどうするか?」
それだけに意識を向けようと思ったのです。
すると、不思議な事が起こり始めました。
私の周りにいる人が自然に成長し始めたのです。
これまで私にとって、たくさんいた
「この人に何とか成長してもらわなければ」
という人も、いつの間にか1人もいなくなっていました。
私は、
「何をするか?」
よりも遥かに力強い発振がある事を知りました。
それは、
「どう在るか?」
という事です。
犬も猫も植物も、例え同じ言葉をかけ続けたとしても、その波動が、愛なのか?不安なのか?で全く違う反応を示すそうです。
植物に毎日怒りをぶつけれは、本当に枯れてしまうという話を聞いた事があります。
人間も同じです。例え何も言わなくても、愛の波動は、人を育て、見守ります。
私は、本当の教育が何かに触れたような気がしました。
私の妹と弟は、父の勤めていた愛農高校に進学し、3年間、寮で過ごしました。
そして色々と苦労して大切な事を学び、卒業の時には、2人とも父の事をとても尊敬するようになっていました。
父が、何かを説明したり、教えたからでは無いと思います。
ただ近くで、その真剣さを、本当に命を削る姿を見ていたからだと思います。
私は、今、人は在り方を通して人を育てるのだと確信しています。
人はいつまでたっても、きっと未熟である事には変わりが無いでしょう。
ですが、その未熟さに囚われず、ただ真剣に、ただ心を込めて、今、目の前にいる人に向き合っていけば、それでいいのだと感じています。
いつも笑顔の人がいたり、
何も言わない人がいたり、
すぐ怒る人がいても、
その源が愛ならば、何の問題も無いという事です。
そして、例え、それが不安からきていたとしても、それはそれで、大きい意味では、人を育てているから安心していいと思います。
ただ、必要な事が起こるだけなのです。
結局、何がどうなっても大丈夫という事です。
明日の不安に怯えずに、
昨日の失敗に囚われず、
今を生きたいものだと思います。
私達大人が、今を丁寧に生きるという、
自己教育
これこそが、本当に人を育てる教育そのものなのでは無いでしょうか?
日々精進していきたいと思います。
今日も読んでくださってありがとうございました!
今日は、真面目なまま終わりま〜〜す!
また、お会いしましょう〜(๑˃̵ᴗ˂̵)
私達は、
私達は、日々色々な事を発振して生きています。
発信では無く、発振なのは振動で広がっていくからです。
そして自分の意識状態から発振された事を見事に私達は体験して生きています。